東西の海の幸

友人が心をこめて作ってくれた惣菜を昼食に食べた。特に珍しい料理でもなくごくフツーのオカズなのだが、なぜか母が作ったものと同じ味がするような気がして心が躍った。

タラコの生姜煮…確かに小さいコロはよく食べた気がする。
母君は某国営企業の製紙工場技術者として祖父が戦前渡っていた樺太(サハリン)で生まれたが太平洋戦争の開始と共に静岡の工場に移動し、幼少時からを過ごすコトになった。
タラコを生で食べる習慣は冷蔵冷凍技術の普及していなかったムカシにはなく、たいていは焼くか煮るかして食すのが静岡の庶民であった。そんな母君はボクの父の転勤で北海道の釧路に行ってもタラコを生で食べようとせず、前述の調理をしたものが食卓に上ったのである。
小さいトキからの習慣と云うものは恐ろしいもので、どんな環境に変化しても従来の慣習はナカナカに変えられないものなのであり母君がそうあったのもムリのないコトと思う。
いつの間にか釧路では生のたらこ…つまりスケトウダラのタマゴの塩漬…だけを食べるようになり、逆に静岡に戻ってからもその味の素晴らしさを知ってしまっているのでナマ以外には食さないと云うコッケイな逆転状況になってしまったのだ。もっとも昭和50年代ともなれば生鮮食料品の冷蔵冷凍流通システムも拡充し、庶民も容易にその恩恵に預かれる時代に変貌しつつあったのもあるのだが。
そんなワケでボクにとっては本当に久しぶりの“タラコの生姜煮”に懐かしい時代の思い出やと母の温もりを感じた昨日だったのである。

そのタラコで昼食を終え、増税が見送られたと云うヨロコビをかみしめながらタバコを一服していると玄関のチャイムが鳴った。どーせ宗教団体の勧誘か健康食品の訪問販売だろうと思いつつインターホンに出ると「宅急便で〜っす!」とゲンキな声がする。自分で注文するモノはたいてい午後五時以降の配達指定にするのでヨソからの届け物であるコトはスグに判った。
なぜボクが五時以降の配達指定をするかと云うと、クリエイティブなシゴトの作業中は集中力を切らしたくないからなのである。色やカタチや配置などグラフィックな作業は神経を研ぎ澄まし持てる感性を最大限に発揮しないと心地よい結果は生まれないものなのだ。
時間で区切ってシゴトなどといったコトは論外で、その間は出来るだけ外からの情報はカットしジブンの世界に没頭すると云う誠に以って自分カッテな世界なのである。
写真の撮影などを行っているトキなどチャイムや電話が鳴っても無視するコトもしばしばで「用があるならまた来るだろー」みたいなイーカゲンヤローでもある。だいたい仕事カンケーはケータイかEメールだしね。
だが昨日は宅急便の送り主と外装文字を見てすっかり労働継続意欲を喪失してしまった。タラコ生姜煮を作ってくれた友人が“広島の牡蠣”ムキ身をたっぷりと送ってくれたのだ。
ん〜♪ 今日は生ガキで一杯かよ…
生で食べるだけでは十分に持て余す量だから妹にもお裾分けして〜、そうだせっかくだから実家に行って母君と一緒に食べようではないか…という名案にボクはもうシゴトどころではなくなってしまったのね。
誠に以ってジブンカッテなヤツなのだなぁ。