夜半の読書とフィナンシェ

このところ夜遅くまで本を読んで過ごすことが多くなった。痛みと薬のせいで眠れぬ夜をやりすごすために始めたことだが、ずいぶん快方に向かっている今になってもこの快楽はやめられない。

家人も床に就き騒々しいテレビの騒音も消え去った静寂な時間…一人ベッドの中で風や雨の音を聴きながら追う活字は、パソコンのディスプレイからもたらされる情報に比べ遥かに想像力を刺激してくれる。
小説であったり随筆から紀行ものまであまり選ばずに読んでいるが、いずれも正確に作者の表現したかった概念を感じ取り自らの身肉とするためには豊かなボキャブラリと言葉や文字の持つ意味と語感、そして相応の知識や教養がなければ真の面白さは解らないままだろう。よく読書をして教養を身につける…というが、その読書のための教養も実は必要なのである。
高校・大学と貪るように本を読み漁った。現在の素養というか基盤はすべてその時に培われたものであり「あの頃そうしておいて本当によかった…」とつくづく思う。社会人になってからは煩悩の趣くまま酒など目先の快楽に溺れ「本なんていつだって読めるさ」と自らを欺いた生活にも慣れてしまい何も感じなくなってしまっていた。病気にでもならなければそうした青年時代に積み上げたものが“役に立たずもったいない”どころか“使おうかと思った時には腐敗していた”という悲惨な目に遭っていたに違いない。
ベッドの脇に積み上げられた書籍の山を見つめながら、ふとそんな事を考えていたら妙に小腹が空いているのに気が付いた。以前ならここでラーメンなどといった方向に手を染めたのだろうが、胃袋が小さくなってしまったせいかあまり壮大な欲望となって心を覆い尽くしてこないところが若干寂しくはある。
のそのそ起きてそっとリビングの戸棚を開けると美味しそうな菓子が一袋あった。『十勝この実』か…フィナンシェにナッツをあしらってありちょっとつまむのには都合がいいサイズだ。
フィナンシェとは仏語で金融や金持ちを意味する言葉で、出来あがった姿が金塊のようであったからそう名づけられたと言われている。レシピや菓子そのものとファイナンシャルは何の関係もない…というところが日本の菓子の命名過程とは大いに異なる所が愉快ではないか。
そういえば静岡の相良という街に「賄賂最中」という菓子がある。江戸幕府の老中・田沼意次の出身地でもあり、彼は公金を使って東海道藤枝宿から生地・相良までの間に大きな道路まで建設してしまった。現在も“田沼街道”と名の残る幹線道路でもあるが、さしずめ御用土建屋からは何度もワイロが献上されているだろう姿は現代もそう変わるものではない。
一度そのモナカを購入してみたが、表面だけビッシリ最中が並んだ箱は見事に“上げ底仕様”となっており、小判を模したパンフレットが下に隠されていたような記憶がある。戯れた土産のようでもあるがなかなかに意味深くとらえることもできるし、最中そのものも地元の由緒ある和菓子屋さんが調製したものなので美味しいのだ。
「今度近くまで行ったらぜひまた購入しよう…」フィナンシェを食べながらそんな事を思った。